2025年、戦後80年という大きな節目を迎えます。
多くの犠牲者を生んだ「沖縄戦」について知り、
命の尊さについて考えることは
沖縄戦の記憶を未来につないでいく大切な一歩です。
本特集では、沖縄戦の基礎知識や
語り継ぐ人のメッセージをはじめ、
映画作品や施設、
ガイドツアーなど、
さまざまな角度から沖縄戦を学ぶことができます。
語り継ぐ沖縄戦
沖縄戦を語り継いでいくことは、
平和な世界を築く礎でもあります。
沖縄戦体験者はもちろん、
次世代の語り部として活動をしている
戦後生まれの非体験者まで、
異なる視点からみつめた
沖縄戦の実相や
平和ついての思いをお届けします。
ひめゆり平和祈念資料館 館長/
ひめゆり平和研究所所長
普天間 朝佳 ふてんま ちょうけい
1959年沖縄県生まれ。琉球大学法文学部卒。「ひめゆり平和祈念資料館」の開館時に職員として採用され、35年間「ひめゆり同窓会」メンバーとともに尽力してきた。2018年4月、同資料館館長を務めてきた島袋淑子氏の退任により、「戦後世代」として初めて館長に就任。以降、精力的に平和へのメッセージを発信し続けている。
「ひめゆり平和祈念資料館」を拠点に、
世代を超えてつなぐ
戦の記憶と平和への希求
2018年より、戦争を体験していない「戦後世代」として初めて「ひめゆり平和祈念資料館」の館長を務めています。私自身が沖縄戦について本格的な知識を得たのは大学生の頃ですが、当時、本当の意味で戦争のむごたらしさ、恐ろしさを理解していたわけではありません。1989年の資料館開館時に職員となり、ひめゆり学徒隊生存者の皆さんの活動を間近に見つめ、長い歳月を一緒に過ごしたことで、はじめて沖縄戦がもつ生々しい実相と対峙したのです。
沖縄戦では、まだ若い学生たちも多く動員され「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた、当時10代の女学生たちが体験した「沖縄戦」は、あまりに残酷なものでした。筆舌に尽くしがたい記憶を語り継ぐことで、二度とあのような戦争を起こしてはならない。未来へ平和をつなげていかなくては。そんな思いを持つ当事者たちの手によって「ひめゆり平和祈念資料館」は設立されました。現在、私は職員と力を合わせ、沖縄戦体験者の思いを次の世代へ向けて伝えるための取り組みを行っています。
当資料館は2021年にリニューアルを行いました。イラストや映像、写真を活用して「戦争からさらに遠くなった世代」にも届く展示を目指しています。また、高校生が同世代に伝えるためのワークショップや平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)でのフィールドワークを前提としたワークシートの提供など、中高生を対象にした平和学習にも力を注いでいます。2025年には、いよいよ沖縄戦から80年を迎えます。戦争体験者が少なくなっていく中、どのように戦争の記憶をつなぎ、次の世代へ引き継いでいくのか、新たな発想でそれを模索していくことが我々の使命だと考えています。
ひめゆり平和祈念資料館
平和教育ファシリテーター/
株式会社さびら 教育旅行チームマネージャー
狩俣 日姫 かりまた につき
1997年沖縄県生まれ。普天間高校卒業後、オーストラリアにワーキングホリデーへ。帰国、平和教育ファシリテーターとして活動。2022年、問題意識を共有する数人の仲間と「株式会社さびら」を設立した。同年、Forbes ジャパン「世界を変える30歳未満」のひとりとして、教育分野から選出された。
過去・現在・未来をつなぐ「平和教育」で、
沖縄戦から学び、
より良い明日へつなげたい
祖母が沖縄戦体験者だったため、幼い頃から戦争は身近なものでした。また、学校の授業でも「平和学習」を受けてきましたが、あの頃は沖縄戦と自分のつながりがイメージできず、漠然と“昔の話” として捉えていたように思います。高校卒業後、オーストラリアを訪れた際に、現地の人々やアジア地域の学生から沖縄戦について尋ねられ、しっかり自分の意見が言えないことにショックを受けました。この時の経験が私の大きな転機になったと思います。
帰国後、友人たちとともに沖縄戦について意見交換をする中で、過去に学び、未来へつなげていくことの重要性を感じるようになりました。現在、私は「平和教育ファシリテーター」として、県内外の若い世代へ向けて沖縄戦を通した平和教育を行っています。戦跡のフィールドワークはもちろんですが、クイズやロールプレイなどを通して、子どもたちが主体的に「もっと知りたい」と感じ、自分の生活とリンクして考えられるように、「伝え方」や「伝える環境」を重視しています。
沖縄戦について知り、平和を考える時、その先には私たちのくらし、そして未来の社会があります。だからこそ私たちの世代は「自分の選択が平和につながっているのか」ということも、あわせて考えていく必要があるのでしょう。沖縄戦の事実を伝えるとともに、より良い社会を築くために、ここから何ができるのか。それにはまず周囲の人々と対話をする土壌をつくることが大切だと考えます。私たちが行う「平和教育」では、さらにひとり一人が考えて発信していくための、その種まきをしていきたいと思っています。
株式会社さびら
なは産業支援センター 409号室
TEL:098-953-6578
「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」会長/
「元全学徒の会」共同代表/名桜大学名誉学長
瀬名波 榮喜 せなは えいき
1928年、沖縄県久志村(現在の名護市)生まれ。米軍上陸前年の1944年に県立農林学校に入学し、寮生活を送る中で沖縄戦を体験する。
戦後は米国に留学し、琉球大学で教鞭をとるなど、沖縄の教育に多大な功績を残す。現在は「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」会長としても尽力している。
今もなお鮮明に残る凄惨な戦禍の記憶。
体験者として次世代へ
「平和」の砦を残したい
私は沖縄本島北部の出身ですが、小学生の頃、先生やクラスメイトと山の頂で見た軍艦の姿が今も目に焼き付いています。今思えばあれは南方へ行く日本艦隊だったのでしょう。当時は軍国主義教育が徹底されており、子どもたちは皆「兵隊さん」が着る軍服に憧れたものでした。15歳で試験に合格し、嘉手納の県立農林学校へ入学して寮生活を送りましたが、そこでは厳しい規律と先輩方の指導が待っていました。あの頃、皆で歌った軍歌や仲間の顔は、80年経った現在も鮮明に覚えています。まさに、沖縄が本格的な地上戦に至る直前のことでした。
入学後しばらくは、皆学びの意欲に燃えていましたが、いよいよ米軍上陸への備えが始まり、日本軍が校舎や寮を接収したため、授業どころではなくなったのです。我々も中飛行場(現・米軍嘉手納飛行場)の滑走路や軍の陣地構築へ駆り出されました。翌年、米軍が上陸したその日に飛行場は占領されてしまい、その後一気に地上戦が激化するわけですが、北部の山中を逃げ惑った際の迫撃砲の凄まじい爆音や犠牲になった人々の様子は生涯忘れることはないでしょう。日本軍の掃討戦が日に日に激しさを増し、私自身も最後は米軍による火攻めで山から炙り出され、その後収容されました。
沖縄戦体験者として、戦争は「永遠に否定し続けなければならないこと」だと強く感じています。現在、私は「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」の会長を務めていますが、かつてこの島に悲劇的な結末をもたらす重要な決定がなされた「第32軍司令部壕」を、今度は平和の砦、人間性復活の象徴として後世に伝えたいという思いで取り組んでいます。あまりに多くの犠牲者を出した沖縄戦とは一体なんだったのか。そして、あれから80年が経とうとしている今は、本当に平和な時代と言えるのか。真の平和を構築するためには、ひとり一人が真剣に考え、行動することが求められているのです。