2025年、戦後80年という大きな節目を迎えます。
多くの犠牲者を生んだ「沖縄戦」について知り、
命の尊さについて考えることは
沖縄戦の記憶を未来につないでいく大切な一歩です。
本特集では、沖縄戦の基礎知識や
語り継ぐ人のメッセージをはじめ、
映画作品や施設、
ガイドツアーなど、
さまざまな角度から沖縄戦を学ぶことができます。
沖縄戦について
約80年前に起こった「沖縄戦」とは
一体どのような戦争だったのか。
その実相を、年表やキーワード、
Q&Aなどを交えてわかりやすく解説します。
これまで、沖縄戦のことを
知らなかったという皆さんも、
この機会にぜひ「もうひとつの沖縄」の姿を
想像してみてください。
「沖縄戦」とは
どんな戦争だったのか
沖縄戦を知るための
5つのキーワード
地上戦
ガマ
学徒隊
鉄の暴風
慰霊の日
「沖縄戦」の年表
History
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1931年~
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満州事変~
アジア太平洋戦争1931年の満州事変から始まる「15年戦争」において、沖縄出身者も中国・アジア・太平洋各地で亡くなりました。その中には、徴兵されて日本軍に従軍した人や、サイパン・フィリピン等での戦闘に巻き込まれて亡くなった人も多く含まれています。
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1943年~
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戦時撃沈船舶/十・十空襲
1943年以降は南西諸島周辺の海域での米軍の無制限攻撃により、定期航路船や疎開者・引き揚げ者を乗せた船が次々に攻撃されました。また、那覇中心部等を壊滅させた1944年10月10日の「十・十」空襲以降は各地で空襲による被害も出ました。
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1945年
3月末~
5月下旬 -
米軍上陸と中部での
日米の戦闘3月26日に慶良間諸島、4月1日に北谷~読谷に米軍が上陸しました。日本軍は首里城地下に置いた司令部を中心とした持久戦を行い、5月下旬までの間に中部での日米両軍の激しい戦闘が行われました。また、この時期の本島北部では日本軍の遊撃戦も行われ、山中を逃げ惑う住民らも栄養失調などで亡くなりました。
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1945年
5月下旬~
6月 -
日本軍の南部撤退と
南部での戦闘本島中部の戦闘で大半の兵力を失った日本軍ですが、国体護持のための時間稼ぎの作戦として、5月27日に首里の司令部を放棄し本島南部に撤退します。その結果として6月末までの間に、南部に追い詰められた多くの住民、日本兵らが米軍の掃討作戦によって犠牲になりました。
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1945年
7月~ -
収容所での犠牲と
米軍基地建設戦場を生き延びた多くの人々は本島中北部の収容所に入れられますが、そこでも多くの人が亡くなりました。また、日本軍により住民が強制疎開させられた八重山でもマラリア等により多くの犠牲者が続出します。日本軍は9月7日に正式に降伏文書に調印しますが、その頃には各地での米軍基地建設が始まっており、住民らの苦難は戦後も長く続くことになりました。
Q&Aで紐解く沖縄戦
Q1. なぜ沖縄で地上戦が行われたの?
沖縄で地上戦が行われたのは、その地理的要件が大きく関わっています。もともと沖縄戦における米軍の目的は、本土攻撃のための航空基地や兵站基地を確保することでした。一方、沖縄に配属された日本軍は、敗色濃厚の中にありながら、本土防衛のために米軍を沖縄に引き止めて時間を稼ぐ「持久作戦」をとりました。「沖縄守備軍(第32軍)」の任務は南西諸島を日本本土として守り抜くことではなく、米軍を沖縄に釘付けして本土決戦に備えることだったのです。このように日米双方の戦略に巻き込まれるかたちで、沖縄では激しい地上戦が長く続くことになりました。
Q2. 沖縄戦はいつ始まったの?
沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸より本格化しましたが、前年の1944年の8月には、疎開船「対馬丸」が米軍の潜水艦に撃沈される「対馬丸事件」が起こっており、同年10月には「十・十空襲(沖縄大空襲)」によって、民間施設を含む無差別攻撃が行われています。さらに遡って1931年におきた「満州事変」が15年戦争の始まりであることから、実質的には地上戦が始まる何年も前から、沖縄の人たちが関わるかたちで戦争は続いており、その延長上に「沖縄戦」がありました。
Q3. 沖縄戦はいつ終わったの?
1945年6月23日未明、第32軍の牛島司令官と長参謀長の自決によって、沖縄における組織的戦闘は終結しましたが、その後も各地で犠牲者は増え続けました。同年9月7日、第32軍として無条件降伏を受け入れる旨を記した降伏文書に調印し、沖縄戦は公式に終結しました。米軍の沖縄上陸から5ヶ月以上経ってからのことでした。しかし、体験者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)や不発弾、戦後も続いた米軍軍政下のさまざまな問題など、沖縄の人々の苦悩は長く続きました。今なお、何をもって「沖縄戦が終わった」と言うのか一概には語ることができません。
Q4.
沖縄戦ではどのくらいの人が
犠牲になったの?
現在沖縄県が公式に発表している左のグラフの通り、沖縄戦の全戦没者は20万人を超えています。しかし、ここには沖縄戦における一般住民の犠牲者が正確には導き出されておらず、実際の戦没者はこれよりも多くなることは確実だと言われています。また、朝鮮半島出身者も約1万人が犠牲になったと言われていますが、平和の礎には463名が刻まれているのみとなっています。現在もなお、沖縄戦の被害の実相を把握するための努力が続けられていますが、正確な犠牲者数を確定することは、戦後長い年月を経てさらに困難になっています。
Q5. 今も残る沖縄戦の影響とは?
現在もなお、沖縄には「日常」の中に戦争の痕跡や影響が残っています。
戦後80年という節目を控えた今、真の「戦後」とは一体何を指すのか。
沖縄県民だけではなく、今を生きるすべての人が向き合い、共に考えていくことが何よりも重要です。
<体験者のPTSD>
「沖縄戦トラウマ研究会」の調査(2012年〜2013年)によると、沖縄戦体験者のうち、約4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症しているか、または、発症する可能性が高いという結果が出ており、深刻な心の傷(トラウマ)を抱えていることがわかります。そこには今もなお、沖縄に駐留し続ける米軍の存在が影響していると分析されています。
<不発弾>
沖縄戦では「鉄の暴風」と呼ばれるほど、すさまじい物量の砲弾が各地に撃ち込まれました。今もなお1800トン以上の不発弾が地中に埋まっているとされ、その脅威はいまだ残ったままです。
<遺骨収集>
20万余りの犠牲者を出した沖縄戦では、多くの遺骨が今もなお各地に眠っています。沖縄では戦後早い段階から各地で住民たちの手によって遺骨が集められ、納骨堂などに収められており、ボランティアによる収集活動も長年続けられていました。近年になって、ようやく国によるDNA鑑定も始まっていますが、身元の特定に向けた課題も多く残されています。
<米軍基地>
沖縄県には31の米軍専用施設が設けられ、その総面積は1万8,609ヘクタールで、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.6%に及ぶ米軍基地があるという状況が続いています。そして、現在もなお米軍基地に起因する事件や事故が繰り返されています。
北上田 源
きたうえだ げん
1982年京都市生まれ。琉球大学進学のために来沖し、大学1年生の頃より平和ガイドの活動を始める。2001年から「沖縄平和ネットワーク」の会員として月数回の平和ガイドの活動を行い、2016年、同会事務局長に就任。また、学生時代から県内のフリースクール等で教員として勤務しており、2021年より琉球大学教育学部社会科教育専修准教授(専門分野:社会科教育、平和教育)を務めている。